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JB Pressに掲載されました (第2回目)外資の首切りを羨む社長が決定的に見落としている事

2019年11月13日
外資の首切りを羨む社長が決定的に見落としている事
「クビを切る者の心構え」と「切られる者の備え」


外国人経営者が雇用カットする姿勢を批判して、「社員の雇用を切ってよいなら企業の再建は簡単にできる」とうそぶく経営者がいる。

本当にそうだろうか?

十数年前に日本企業の米国子会社の社長をしていたころを思い出すと今も胸が苦しくなる。

私はクリスチャンでもないのに教会に行って、これからクビを言い渡す米国人社員のことをずっと考えていた。よりによって、先日の忘年会でその社員から奥様を紹介され生まれて間もない赤ちゃんと挨拶したばかりだ。

人事異動の一環で社長になったに過ぎないのだ。こんなひどいことをする羽目になるとは思わなかった。ただ、同僚の我慢は限界に来ていたし、本人への教育的指導も何度か行った。辞めてもらうしかないという判断には自信があった。

意を決して、「もう来なくてよい」と言い渡した時の彼の悲しそうな顔はいまでも忘れない。「米国人は雇用カットに慣れているから明るいもんだよ」、なんて事情通ぶって言う人がいるが、嘘ばっかりじゃねーか! 「お前はいらない」と言われてショックを受けない人間などいないのだ。表情に出すか、出さずに済ませられるかの違いがあるだけだ。

●外資の雇用カットの作法
時々「私は何百人にクビを言い渡してきた」と誇り、本にまでしてしまう人事経験者がいるが、私には理解できない。雇用カットは必要悪である。できれば避けたい、でも行わなければいけない以上は通すべき筋と流儀がある、というのが多くのグローバルエグゼクティブの本心ではないか。

雇用カットの原因にはいくつかのタイプがある。業績悪化、戦略変更に伴う部門閉鎖、個人パフォーマンス等々。理由はともあれ個人からしてみれば、その場で働き続ける選択がなくなるという意味で同じ、大きな変化を迫られる。そこへの配慮がなければ経営が成り立たないことは、容易に想像がつくはずだ。本日は特に個人パフォーマンスに焦点をあてて日本とグローバル企業の差につき言及していきたい。

日系企業勤務を経て、スイス系金融コングロマリットに職を移し、2008年11月リーマンショック直後に社長になった。

世界中が大混乱をしていた時期だ。特に私は世界でもっとも傷ついた金融グループに勤務していた。いまでこそリカバリーしたが、当時は信用不安のうわさなども流れていた。社員一人ひとりの表情から、「私の雇用は大丈夫なのか?」と不安とおびえが見てとれた。

私はそれから2年間、雇用を一切いじらなかった。実は、社長に就任した段階で、既に経営戦略を100ページ以上のパワポに整理していた。この人にはいてもらっては困るという問題児にも概ね目を付けていた。それでもあえて二年間、何もしないことを選択したのだ。不安の募る時期に、一人でもクビを切ったら、いくら個別事由だと説明しても、社員たちは経営の言葉を信じられなくなる。「次は私ではないのか?」と心が乱れるものだ。


自分が何をしてしまったら経営は自身の雇用をカットするのか? 逆に何をすれば評価されるのか? 実は雇用カットは経営による人事評価に関する究極のメッセージなのだ。経営の肝だから、伝える内容も、伝え方にも細心の注意がいる。

私は、「仕事ができる」と「仕事ができない」を縦軸、「一所懸命努力する」と「さぼる」を横軸にとって評価の基準としていた。横軸は日本企業が長い私ならではの基準といえよう。しかし、それがまさに経営者としての私の思いであるから大切にした。わかりやすい基準は社員を疑心暗鬼から遠ざけてくれる。雇用カットにこそ企業文化と経営理念が顕在化するというのはまさに実体験から来る教訓なのだ。

余談となるが、経営者が交代すれば、横軸の仕事に向きあう姿勢に求める基準は多少変化することだろう。いままで折り合いの悪かった部下も再評価されるチャンスが生まれるということだ。日本企業の人事異動で生じる悲喜こもごもが外資でも存在するわけだ。ただし、上司にも部下にも辞めるという選択肢があるので、環境を変えて悪い関係を自ら断てるというのが、旧来型日系企業との大きな違いだろう。

●景気のボトムに人を切る日本、切らない外資
「人を切れば企業再建できる」などと言ってしまうのは、短期的な損益の改善しか見ていないからではないか。中長期的に実績を積み上げようとしたら、社員の会社へのコミットメントを引き出さずしてはありえない。

ただ、雇用カットを先延ばしした決断を“情緒”的配慮とだけ捉えてしまったら、経営は失敗する。

グローバル企業が景気のボトムで人を切らず、その手前または事後にタイミングをずらそうとするのにはもっと深い理由がある。それは何か?

その方が辞めた人間が次の仕事を見つけやすいのだ。そうすると、会社も訴訟を起こされにくい。社員にも、企業にも合理的なのだ。

そんなからくりを体感してからは、日本企業の経営者が「最後まで頑張りました。もう無理なんです」と言って、景気のボトムに数千名の社員を放り出すことが、理解できなくなった。本当の優しさはもっと合理的な判断から生まれるのではないか。

もちろんこれは白黒の話ではない。日系的なグローバル企業もあれば、外資的な日系企業もある。人財カットの話を例示したのは、それぞれの企業行動の違いと深層にある理由を、今一度「冷静に」考えてほしいからだ。


私はグローバル企業に日本的人事を持ち込み成功した。ポイントは二点。

①「努力している人間は短期的実績が悪くてもすぐに切らない」と経営の基準を定めたこと。
欧州の人気企業など、みな辞めたがらないから生涯一企業に勤める人財も少なくないと友人に聞いた。一方で雇用カットは粛々と行われていくのだ。努力を大切にする、それは実は国籍を問わずとても大事なメッセージなのだ。

②もう一つは、人事部の強化だ。
小さな組織でもトップになれば情報が上がりにくくなる。また経営への批判も届きにくいものだ。人事部に信頼できる人財を登用したことで、より公平な目で努力の程度と実績を評価できる仕組みを作れた。

●ピンチがチャンスに代わるメカニズム
終身雇用制度の崩壊と一口にいっても、人によって思い浮かべるものは様々である。よくメディアで報道されるように、ある朝、出社してみれば席がないというのはもっともドラスティックなパターンだ。しかしグローバルビジネスの現場で働いて長い私でも、このようなパターンはいままで一度も目にしたことがない。クビを切るのに、指導を繰り返して三年間様子を見ようというのが基本線だった。つまり制度変革は1か0かの世界ではないということだ。いま日本企業がなすべきは、「自社の文化」と、「グローバルな環境変化ニーズ」のブレンド比率を定めることだ。

終身雇用制度を放棄した世界の企業の唯一の共通項は、納得いかない人財の雇用を切るという「選択肢」を得たということである。

さて制度論はさておき終身雇用制度の変革は、個人にとってはいかなる意味を持つのか? ピンチはチャンス、日ごろの心構え次第では、多くのビジネスパーソンが、人事制度変更により幸せの面積を増やせることも知ってほしい。

以前書いた本で私は、個々人の市場価値の数式をこう記した。

「個人の市場価値」=「スキル」×「実績」×「変革心」×「気合い」

実は外資の人財が強いのは右2つ、「変革心」と「気合い」なのだ。

日系企業人財は左側、「スキル」や「実績」では決して引けをとならない。私は日系企業で人事部を経験し、欧米企業で経営経験を積んだ。その結果、日本人が思っているよりもはるかに日本のビジネスパーソンの市場価値は高いと確信を持った。追い詰められて尻に火がつけば、過半の人が本領を発揮し、想定したほど悪い処遇ではなく次を見つけているのはそのためだ。

逆に使えない人財は日頃迎合することになれて枯れてしまった人だ。火のつかない人財はどこでも疎まれる。


●あなたの「エッジ」は何か
「あなたのエッジはなんだ?」と聞かれて、「ありません」と控えめなふりをして、“謙虚仮面”をかぶるのはやめよう。「言わなければクビにするぞ!」と言われたら真剣に考えるはずだ。そのとき口にした強みをひたすら磨き、軋轢を恐れずなすべきことに挑戦し続ければ必ず勤務環境選択の自由を獲得できる。

私のかつての部下たちも、破綻企業からの参画が少なくなかった。実体験からの教訓だ。