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JB Pressに掲載されました。 もはや「戦時が日常」、リーダーは何を優先すべきか

もはや「戦時が日常」、リーダーは何を優先すべきか
「生き残れるか、野垂れ死ぬか」は経営者の力量次第
2020.4.13(月)
岡村 進

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●21世紀は「戦時が平時」の時代
 ビジネス・リーダーに確実に訪れる危機は、もう100年とか1000年とか、そんな単位で直面するわけではない。特に21世紀に入ってからは「戦時は平時」と思わせるほど、経営者にとって危機に溢れた時代だ。

●危機に備えるリーダーの資質とは
 私は日本・海外通算で社長業務17年目となるが、ほとんどが危機と向き合うことが仕事だった。危機のインパクトはそれぞれ異なるもの。実際には数年に一度は大きな影響を被るショックが起きているというのが私の実感だ。米同時多発テロ(01年)、いわゆる9・11を経て芽生えたその思いは、リーマンショック(08年)で確信に変わった。さらにその3年後には欧州債務危機(11年)が勃発した。その直前には大災害、3・11が押し寄せていた。
 危機は危機を呼ぶ。コロナ・ショックの感染症は既に早晩、大きな経済危機へと発展しつつあるを生みかねない。経営者はいま、危機が押し寄せる時代に備えて、自らの理念を再点検の上、強く貫く精神を保たなければならないだのだ。
 私はというと、新型コロナという未知のリスクを前に、生徒の皆さんからのリアルな悩みや不安の相談を受けながら、人財育成会社の経営者として、経営や教育や経営のあり方につき日々工夫を凝らしている。こんなご時勢だから、大きな精神的プレッシャーの下で悩み葛藤することも多いが、慌てることはない。毎日が学びの連続と前向きな気持ちを維持している。
 危機を目の前にすると、ピリピリして相手を批判、攻撃することに神経のすべてが向かってしまう人が現れる。大きな声をあげて糾弾しているうちに、感情がさらに高ぶってしまうのではないか。幸いにしていまは社員に恵まれているが、かつて会社勤めをしているときには、自分に矛先が向けられることも多かった。
 批判する側も、受ける側も一所懸命だ。“それぞれの”正義感に基づき必死に行動しているはずだ。だからどちらが良い、悪いの議論は不毛と考える。さて、もしも、あなたが火の燃えさかる危機の渦中にいたら、リーダーとしていかに振る舞うだろうか? ご自身のどんな性格がリーダーに向いていて、逆に気を付けなければいけない弱みとは何か。

●9・11で向き合った「ビジネス」と「社員」、そして「命」
 コロナ・ショックの特徴は、社員の命の危機に対峙しなければならないことだ。この未曽有の危機を前にし、ふと頭に浮かんだのは、日本企業米国法人社長として経験した、2001年米国テロ9・11のときのことだ。
 実はその瞬間に、私は日本に出張していた。社員も家族もニューヨークに置き去りにして、いても立ってもいられない気持ちだった。崩壊したワールドトレードセンターへの訪問アポのあった社員の安否を確認できるまでに9時間かかったことで、身も心もやせ細った。
 数日経って帰国フライトがとれ、米国に戻った。最初に私がしたことは、崩れ落ちたビルディングの立ち入り禁止ぎりぎりのところまで歩み寄って、まだくすぶる煙の臭いとおそらく亡くなられた方を運ぶトラックの往来を呆然と眺めたことだ。
 なぜそんな怖い思いをして、わざわざ自分にトラウマを植え付けることをしたのか? 遠く日本にいたからこそ現地の状況がわからず不安も心配も大きかった・・・それは事実だ。しかし、本当にその場で過ごした人たちの苦しみや思いをリアルに感じ取れる自信がなかったからだ。それでは社長がぎりぎりの時に判断を過つだろうなと直感していた。
 後に、一人ひとりの社員と面談したときに、おびえた女性社員から「逃げ出すためのパラシュートを買ってほしい!」と言われた。「うちは低層階だから傘が開く前に落ちてしまうよ」などと拙速に反論せずに済んだのは、そこまで追いつめられる気持ちを想像できたからだ。
 不確実性の時代に組織のトップに必要なのは、想像する力。足りない分は質問する力で補う。私は自分の感受性が不十分だと思っているから、焼け落ちたビルを見に行って想像力の不足を補った。社員を励ますより先に、まずは社員にとことん気持ちを吐露してもらうことで、事態を客観視できるようになった。自らの力を冷静に見極め、負荷の大きい時にこそ自分を上手に使いこなせるのがリーダーの要件だ。

●何を選ぶか、何を守るか
 2011年の3・11の時にはグローバル企業の日本法人社長をしていた。身長2メートル近い体を震わせる外国人の話をずっと聞きながらを励ましながら、オフィスで一晩を明かした記憶が、いまもまだ鮮明に残っている。海外勤務には皆不安が伴うものだ。出来ることは知れていても、トップが傍にいるだけで安心感を与えるはずだと判断した。夜中に手配できるようになった数台のタクシーに自分が先に乗る選択はまったくなかった。守るべきときに社員を守るのがトップの責務だ。
 危機が起きるたびにトップは「最優先するのは誰か?」と即断即決を求められることになる。9・11の時も、3・11の時も、家族に安否確認の連絡はした。それ以外のすべての時間は仕事に充てた。リーダーには責務がある。その緊張感を日頃家族とシェアしておけば安心して危機処理に没頭できる。会社は、いったんビジネスを始めて利害関係者を持った途端に、社会的公器となる。そのトップである社長には社会的責任を担う覚悟があるはずだ。
 日本には「三方良し」という素敵な言葉がある。買い手(お客様)良し、売り手(社員)良し、世間良しだ。トップが三方に尽くすことで得られる喜びは普遍的であるがゆえに大きいと私は解釈している。思いを持って、その理念に徹する強さが、危機を前にしてひるむ気持ちを抑え、前に向かう支えとなる。トップもまた、私利を捨て、大義のために戦っているのだ。
 トップに必要なのは優しさだけではない。瞬時にワーストを予測し、腹を括ったうえで、冷静に物事の取捨選択を行う冷徹さも不可欠だ。
 命にまつわる危機時には、トップに入る情報も真偽が不確実なことが多い。それでも決断しなければ、多くの場合事態は改善しない。米国テロから1年ほど経った2002年、広く中部から東海岸にかけて突然に大規模停電が発生した。ほとんどの人が瞬間的にテロ再発と思い、震えた。しかしその時点で確証はない。もう夕方だったので、社員を返すのか、仕事をさせるのか迅速な判断が必要だった。当時、米国法人社長として、日本で販売する投資信託の現地運用責任を負っていた。ファンドの時価を計算し東京にデータを送らなければ、翌日の日本の新聞の運用会社別投信価格欄に穴が開き、会社の恥となるのでプレッシャーは大きかった。それでも迷わず社員を皆帰社させる決断をした。同業他社にヒアリングしても状況は同じだろうからゆえ時間のロスになるはずだ。スピードが肝要、命に勝るビジネスなし。仮にテロでなかったとしても、トップである自分が責任をとればことは収まると考えた。
 リーマンショックの時には日本法人社長として、グループ全体に大きなリスクが存在することを、明確に感じ取った。しかしその中途半端な情報をそのまま部下に伝えることは許されていなかった。また具体的指示を伴わない情報伝達で、人心をただ惑わすだけのことになれば、むしろ事態をさらに悪化させると判断した。こういう時は共有する情報が少ないという批判と孤独に耐える心の強さが不可欠だ。
 努力なきリーダーは社員の命すら奪う時代となった。自らの信念に基づき迅速に決断・実行していく覚悟、相手を察する想像力、孤独に耐えうる強さがないのなら、自らその任を降りることが社員の為、長い目で見れば部下と同じく心に秘めた正義感を有する自分のためにもなる。トップとして、そこまで厳しい負荷を背負いこんでみてあらためて思うのは、「このビジネスに大義があるのか?」という原点への回帰だ。大義なきビジネスはいつか廃れる(べき)というのが、長く社長業務についていて確信したことだ。

●それでも考え続けるしかない
 自分は昔はもっとはるかに弱かった・・・とあらためて今振り返る。困難にぶつかり、必死に乗り切った数だけ優しさも、少しは強さも身についていった。よく「リーダーの資質って先天的なものじゃない?」という声を聞くと無性に哀しくなる。会社のトップ、部門のトップ、課のトップ、チームのトップ、みなそれぞれに努力しているはずだ。それを天性のものと割り切ってしまっては、弱い自分を甘やかして成長を止めることになり、もったいないではないか。筋トレと同じ。上手な訓練で良い筋肉がつけられるのだ。
 上司も、部下も、危機の時には不安いっぱい、どうにかしたいと一所懸命だ。みんな頑張っているのだ。そして、それはトップも同じ。私はいまどこかの組織のトップの判断に納得がいかないときに、大きく呼吸を一つする。「なぜその判断にいたったんだろう?」と考える。「自分ならどうするだろう?」と続け、そして最後に、「本当にそんな自分の思った通りに組織を動かせるだろうか?」とダメ押しの思考をする。それが私の筋トレだ。経営に長くかかわってきた自分には、もはや一方的批判という言葉が遠い世界に感じられる。どんな小さなことでも、世の中に役立つことをしたい。危機の時こそ。そしてそんな思いを持った人財を育てるために、残りの人生を賭けている。